デスストランディングとは何だったのか?マレーシアの旅のまとめに代えて

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今回の旅の間、時折デスストランディングのことを考えていた。いや、旅の前からずっと頭の片隅にひかかっていた。しかし、なにがひかっかているのかわからなかった。

デスストランディングはメタルギアソリッドの産みの親である小島監督がコナミから独立して初めて作り出したゲームである。僕は小島監督の、メタルギアソリッドのファンだった。当時遅い時間のゲーム禁止だったので、光が漏れ出るのを防ぐため(モニタから光がでると親にバレるので)、モニタに布団をかぶせて夜遅くまでメタルギアソリッドをプレイしていたのを思いだす。2は僕の中でのメタルギアソリッド最高傑作だし、3のジャングルも新鮮だった。4はソリッドスネークの物語の終着点としてこれ以上にないものだったと思う。GZ、POPも楽しめた。P.T.も最高に怖かった。けれど、そんな僕でも5だけは途中で止めてしまっていた。仕事のタイミングなど色な理由があったのかもしれないけれど、当時の僕に理由はわからなかった。ただなんとなく、5を先に進めるをことを止めてしまっていた。

個人的なメタルギアソリッドの最高傑作は2。衝撃的なストーリーには驚かされた。メタルギアソリッドヲタからの評価は低めだが…
小島監督の最新作 DEATH STRANDING 評価は真っ二つに分かれている。


さてデスストランディングの話に戻そう。このゲームは賛否両論のゲームである。それは、海外レビューのスコアに如実に現れている。ネット上でもクソゲーと叩く人間と、逆に最高だと褒める人に2分されている。そして、客観的にみてクソゲーと叩く側の方が筋通っているように思えるのだ。以下に彼らの意見を列挙しよう。

クソゲーだと叩く側の人間たちの意見は
移動させられているだけ
戦闘フェーズがつまらない
合間に長々としたムービーを強制的に見せられる
専門用語が多すぎる。
ストーリーが難解過ぎる。
といったものである。

上記の指摘に「ストーリーが難解過ぎる。」を除いて僕もその通りだと思う。このゲームは基本移動しているだけだし、その移動自体特に楽しかったわけでもない。戦闘も簡単すぎるのでプレイしている意味がないし、楽しめない。ムービーも長すぎる。クソと言われればそのとおりクソな要素だと思う。いまいち納得できないのがストーリーが難解すぎるという意見で逆にくどすぎる位の説明でとてもわかりやすくストーリ展開をしていたと思う。

逆に最高だと褒める側の人間たちは「何が最高なのか?」を説明できていないように思える。ただ、共通しているように思えるのは最高だ派の殆どの人間が最後までプレイした人たちだということだ(エンディングも含めたストーリーの話をしているのでそう判断した)。一方クソだ派はどの程度までプレイしたのはか不明である(あまり言及していないように思える)。

主演を努めるノーマン・リーダスの顔芸にも注目!煽ってんのw?


雑に纏めるとこのゲームは要素要素はほぼクソなのだけれど、なぜか最後までプレイする人が一定数いて、最後までプレイした人間の中に「最高だ!」と思わせうる何かがあるゲームということになる。俺もこのなぜか最後までプレイしてしまった人に入る。
さてこのゲームは一体全体何なのだろうか?



すこし現在のゲームのトレンドについて考えてみたい。現在のゲームのトレンドは、一回のプレイ時間を短くして、面白い要素を抜き出して、それを洗練させた上でいかにオンラインに繋げるのか(配信も含めて)というものだ。これは、何もゲームに限ったことではない。SNSも音楽も報道(と呼んでよいのかは微妙だけれど)も政治すらもそうなってしまっていると思う。恐らく全ての根幹にあるのは消費のベースにスマホが入り込んでいることで、この仕組に気づいている人間が気づいていない人間から搾取を続けているという構図ができあがってしまっている。

さてこのようなロジックに従って出来上がったコンテンツはどのようなものになるだろうか。想像するのは簡単だ。というか、想像する必要すらないと言える。現在バズっているコンテンツを拾ってくればよい。
それは、短時間で楽しいまたは納得できると感じられて、新しさはなくて、簡単にシェアできるものだ。ソシャゲに代表されるコンテンツを想像してもらえればわかりやすい。

このようなコンテンツを消費して得られるの面白さやは反射的なものだ。感情的なものとも言ってもよい。感情的なものだから、すぐに皆が反応して、爆発的に広がる。

こう考えるとデスストランディングは昨今のトレンドに真っ向から反したものだと気づく。長いプレイ時間、主な要素は他のゲームで必要ないとされて切り捨てられている「移動」、そしてオンライン要素も控えめだ。

ゲーム内容はだいたい移動w合間はムービー。新しすぎるゲーム。

そんなデスストランディングから得られる体験は、当然「今バズっている」コンテンツから得られるものとは違ったものだった。

やってみるとわからのだけれど、デスストランディングの移動は特に楽しいわけではないのだが、ついやってしまう何かがある。移動に熱中し集中する瞬間があるのだ。

その一方でデスストランディングで感じたのは孤独だった。プレイすればわかるのだが、作中で生身の人間と人間が触れ合うことはほぼない。会話も専ら通信で行われており、少し感謝の意があるとそこにホログラムが追加される。おまけに主人公は人と触れ合うことにアレルギーを持っているのだw

そして長い移動の最中も基本的には孤独なので、いろいろな考えが浮かんでくる。この荷物なんで届けなきゃいけねーんだよとか、ていうか運ばせるならUCAにはいれよwとか、普通配達中毒になんねーんだろとか、等のくだらないことから、ネタバレになれるので伏せるがストーリーやそれ以外のことについてもたくさんのことを考えた。

そのような、移動と孤独、熱中と思考の体験の合間に小島的で、魅力的なストーリーが展開していく。デスストランディングはそのような体験だったのだ。ここまで思考が展開して、やはり初めの疑問に戻ってしまう。これは一体何なのだろう?クリアしたというのに全くわからない。

僕は何もわからないままマレーシアに旅立った。
















だが、キナバル山の7kmのチェックポイントのベットから起き出して、山頂へと続く揺らめくヘッドライトの光をみたときに不意に分った。僕がやっていたのは、これだったのだと。

登山とは不思議なものである。きついことがわかっている。辛いことがわかっている。登ることも、降りることも要素としては全く楽しくない。景色だって、写真ならば今の時代ネットを使えばいくらでも見れる。それなのに人は山に登るのだ。

そして、登山は感覚と思考の世界を揺らぐ行為だ。きつい登りの最中は何も考えられない。ただ、登る、ひたすら登る。できるのはそれだけだからだ。このときは感覚に集中している。感覚に浸っている。

一方、それほどでもないときには、色んな考えが浮かんでくる。それはきっと孤独だからだ。考えるのには何より一人の時間が必要だから。山を登っている最中にはそれはたっぷりとある。



デスストランディングは登山だった。感覚と思考の世界を揺らぐ行為をゲーム的に再現しようとした試みだったのだ。だから、クリアした人間は何かがひっかるが、それを適切に表現できなかったのだ。引っかかったそれは、感覚でも、思考でもないのだから。

気がつくと僕はキナバル山の頂上に到達し、山を降り始めていた。もしかしたら、ネットにつながったのかもしれない。けれど、SNSでこのすばらしい瞬間をシェアしたいと思わなかった。伝わらないと思った。何故なら僕が伝えたいのは、思考でも感覚でもなかったから。








視界の先に登りの最中に少しだけ話した人がいるのが分った。彼とまた話したいなと思った。僕と同じ様に感覚と思考の間揺らいだ彼になら伝えられると思った。繋ぐべきストランドはこちらのような気がした。









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